明日8月30日は戦後初めて誕生した国産旅客機YS-11が初飛行した日となります。今日では目にすることが無くなりましたが、今なお語り継がれるYS-11を解説します。主なトピックスは次の3つです。

  • 戦後初の国産旅客機
  • 販売不振
  • MSJに引き継がれることのなかった失敗経験(私見)
筆者撮影@航空博物館

まず、”戦後初の国産旅客機”について説明します。日本は太平洋戦争終結後、GHQにより航空機の開発が禁止されていました。しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効による再独立後、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除され、この年の7月に航空法や航空機製造事業法が施行されました。その後、日本航空をはじめとした国内エアラインが設立され、かつては戦闘機を開発した技術者たちは国産航空機による日本国内での飛行を実現させたいという想いが芽生え始めました。

筆者撮影(尾翼には日本航空機製造株式会社の略語であるNAMCの文字がある)

続いて、”販売不振”について説明します。かつては軍用機を開発したメーカーが集まり、日本航空機製造株式会社(Nihon Aircraft Manufacturing Corporation=NAMC)が設立され、数々の困難を乗り越えて1962年8月30日に試作機が初飛行を行った。しかし、これまで旅客機の開発実績のないNAMCのYS-11を購入するエアラインはANAをはじめとした日本国内エアラインが中心であり、1965年にFAA認証を取得して輸出が可能になっても受注は伸びなかった。その結果、1973年に総数182機にて生産に幕を閉じた。

筆者撮影

最後に私見となりますが、”MSJに引き継がれることのなかった失敗経験”について説明します。MSJとは三菱スペースジェット(Mitsubishi SpaceJet)の略語となります。三菱航空機が開発中の機体ですが、2022年時点では事実上の凍結状態となっています。理由は開発力不足によりFAA認可が下りず、ライバルであるエンブラエルに先を越されてしまったためです。

2008年にANAの発注によりMSJの開発はスタートし、当初は2011年初飛行・2013年納入開始としていました。しかし、度重なる仕様変更や開発遅れにより、計画から4年遅れの2015年に初飛行を実施しました。その後、開発遅れを取り戻すべく欧米人主導による開発リスタートや開発トップ交代を経て、米国開発拠点でのFAA認可取得への道のりが加速するように見えましたが、開発は立て直せず、新型コロナウイルスが追い打ちをかけ、開発は凍結となりました。

筆者撮影

開発遅れの原因のひとつは、FAA認可に必要な仕様をMSJ開発陣が理解していなかった点があります。具体的には、航空機というのは保守的な技術を使って安全性を高めています。そのため、過去にはB787が先端技術を多く採用したことでFAA認可取得に時間が掛かったように、オールニューの航空機開発にはFAAも認可に慎重になります。MSJの場合、この予測が甘かったと思われます。本来であれば、米国にて飛行試験を行うのではなく、米国にて開発を行い、FAAと意見交換をしながら仕様を詰める必要があったと考えます。今回は日本国内にて、過去に旅客機を開発したことのない技術者が開発を主導したことで、後戻りできない結果になってしまいました。YS-11でも同じように、旅客機の開発を行った経験のない技術者が開発を行ったことで、乗り心地が悪く、エアラインの意見を聞いていないという事態に繋がってしまいました。今回はエアラインの意見は聞いていましたが、FAAの意見は聞いていませんでした。B737MAX連続墜落事故によるFAAへの風当たりの悪化も要因の一つと推測されますが、MSJの開発はいばらの道であったと言わざるを得ません。

一方で、このプロジェクトに参加していた技術者の方々は大変な努力を重ねたと推測します。今後、航空自衛隊向けの輸送機などの開発にノウハウを活かして頂きたいと感じます。

筆者撮影(DHC-8-300)

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